是より前倉の橋見んと 此川辺へ下る道嶮岨にして 諸
樹枝を交い 日影さへ乏しく 辛くして岸へ下らんとする
所 巌石尖にして 一歩ことに他を見る事さへ叶ハす 既
橋際の処ハ屏風を立たる如き大岩にて 大余の梯を急
ニ掛 眼下の橋ハ いかにも長き木を二本 左右の岩にかけ
渡し 柴を横ニまはらに掻付たるを 予ハ遙ニ此地の奇景
を探るを専とする故 もの好ニ梯を下り 橋の上少し渡りて
頭を挙て見れハ 川向へハ中の平村への往来の丹梯 是 又
立壁の如く 其道筋と見へて 藤蔓かして縄にしたる
をさけたり 又 首を垂れて両岸を望ハ 澗水宛も屏風
を屈曲して廻したるか如く 其色藍ニして 都而此辺ハ渓
流溶々として流れ 目枯せぬ詠なり 傍ニ桶屋か云ふ 爰
を去る事数十丁登りて 大赤沢川の村上 苗場山の下た流
の出合 此中津川と一ツに纏りたる処に 凡二丈斗の瀧あ
り 是ハ大赤沢の対図に当り 矢矧の橋の少し川上にて
底ハ千尋とも云 中津川の其両岸の勝景を見るには
甚行路難渋 時刻移りなハ 今宵上結東村の泊り思ひ
もよらすと云ニ 見残しぬ 抑此橋前後半道はかりの所ハ
深淵限りなき水底数々故 鱒・岩魚の類の栖ニて 彼の 秋
山を住居とす秋田猟師ハ 此水底へ潜り 鍵にて取る事
妙手を得たりとなん 又 東の岸の巌に洞穴あり 其深
き事量知るへからす 又 小赤沢村下りの岸にも大な洞
穴ありて 遙下の川岸の岩ニ抜穴ありと 種々の噺も此地
ニ馴て見聞したる桶屋故 さこそと思ひ 元来し梯
にすかり 辛くして高き皐の細道をたとりたとり 前倉と
云九軒の村あり 桶屋か知己の平左衛門と云家を尋ね
て 腰うち懸けるに 主と見へて 何所から来たと云ニ アイ桶
屋ニ御座りますと答ふに 女房らしきか 手さしの白木の小
盆を出し 是を秋山ニてハつもの盆と申とかや もの摘みなされとさし出すに 我*
ハ 頓て大なる炉はたへ草鞋のまゝに這いより 焼飯を焙
る内に 妻らしきか湯瓶の欠けを茶煎にして 貯へ見ゆる
美濃茶らしきを 空腹にうまく味ふ時 婦の挨拶ニハ
こんな茶碗て恥しう御座ると 茶臺ハ 一方欠けたる木
曾重箱の模様あるを 縁無き方を持てさし出す 又 亭主
の挨拶ニハ 上結東迄遠くこさる 昼飯を沢山喰うて
行かよいと申ニ 予ハ暫休う内ニ 茶代の替りに短冊五
六枚認めさし出す
秋山に短尺配るもみち時
こゝも戸札と問ハる義三寺 牧之俗名義三治故
頓て此村端を出れハ 小高き岡ニ老樹茂りたる中ニ
小社あり 其傍に五・六抱も有ぬへきと思ふ大樫の
少し控になりしを 山師か六尺玉に伐りて挽あり 能く
見れハ鱗皮のうへまて見へ 最上の木にして 数百歳の
星霜を歴る神木も 一度山師の手にかゝれハ 里人ハ知らぬ
か仏て買調ふこと是非もなし



