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-- 戦時中。B29からまかれたマリヤナ時報とは --

第二次世界大戦中、連合軍は様々な宣伝ビラを製作し、B29から日本軍の陣地や日本本土に 撒いたと伝えられている。戦争末期には日本国内の民間人向けにも、多くの宣伝ビラを散布している。戦争末期には、日本人捕虜の協力もあって、アメリカ軍の宣伝ビラの傾向にも変化が生じ、日本人の心情に訴えるものや世論をゆさぶるようなものを製作した。


マリヤナ時報は、アメリカ海軍が作成していた宣伝ビラで、当初は日系人に編集をさせていたが、日本語に不自然さが目立ったため、アメリカ軍は日本人捕虜に添削や校正をさせるようになった。終戦の2ヶ月前には、アメリカ軍は新聞の編集段階から日本人捕虜に任せることにして、ハワイのパールシティ収容所に28名の捕虜が集められた。そこで作成の中心となったのが硫黄島で投降した、小柳 胖であった。

陸軍一等兵であった小柳は出征前は、新潟日報の編集局長であった。


さらにグアムで捕虜になった、朝日新聞社の記者、横田正平、同盟通信社の記者の高橋義樹らが加わることで、マリヤナ時報は本物のジャーナリストが作成する宣伝ビラとなった。

小柳らは、ハワイの新聞社へ出入りを許され、そこで得られた、戦況ニュースを編集した週刊新聞を製作した。小柳らが書いた記事の中には戦時中でありながら、アメリカの新聞には政府批判の論説も載ることを紹介し、アメリカ社会の寛容さを伝えようとしたものもあったが、この記事を載せたビラ
は投下前に終戦となり、日の目を見ることはなかった。終戦までにB-29から本土に投下された、マリヤナ時報の総数は約 458万枚と伝えられている。

長野電波技術研究所附属図書館に蔵書する、マリヤナ時報は、1945年、昭和20年7月26日付け
の号外で、昭和20年7月17日のポツダム宣言を伝えるためB29から撒かれたもので、大きさ、13.8mm×11.0mmのハガキ大。その後、帰国した、小柳 胖は新潟日報の社長を務めたが、生前中、マリヤナ時報について触れることはなかった、と伝えられている。

 


□マリアナ時報販売ページ□
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