理慶尼の記、理慶尼真筆は理慶尼が書いたとされる。
理慶尼は、享禄3年(1530年)~慶長16年8月17日(1611年9月23日)は、戦国時代の女性で甲斐武田氏の一族、勝沼信友の娘で、武田氏当主武田晴信(信玄)の従妹に当たる。
俗名は松の葉、または松葉で、勝沼信元、上野原加藤氏の名跡を継いだ加藤信厚の妹である。兄の信元は、永禄3年(1560年)の上杉謙信の関東侵攻の際、調略により武田氏に謀反を企てたが、のちに謀反の証拠となる文章が発見され武田信玄の命を受けた山県昌景に誅殺された。
妹の松の葉は、雨宮織部正良晴(のちの景尚)に嫁していたが、雨宮家に累が及ぶことを懸念して離縁した。
勝沼にある大善寺の慶紹を頼り、剃髪して尼となり理慶尼と号し、小さな庵室を構えて暮らした。
天正10年(1582年)3月3日、織田信長の武田征伐が勃発し、新府城から落ち延びた武田勝頼らの一行が大善寺に立寄った。
勝頼は、兄の仇の子息ではあるが快く迎えて(理慶尼は織部正に嫁したのちに、勝頼の乳母を務めていたことがあるとされる)大善寺薬師堂に勝頼、勝頼夫人、武田信勝を迎えて理慶尼と4人で寝所を供にした。
勝頼は、ここで家臣小山田信茂の裏切りを知り、天目山に向かっている。その後、武田家のことを物語調に『理慶尼の記』、『理慶尼真筆』(大善寺蔵)に著している。
理慶尼は、慶長16年(1611年)8月17日、大善寺で82歳の生涯を閉じた。
また、大善寺に来た時、懐妊しており、子を産むが男女は不明で、子孫は代々大善寺の近くで住んでいたが、享保年間に絶えたとされている。
理慶尼の墓は大善寺にある。また、武田勝頼は、天正10年(1582年)3月11日、田野で最後を迎えた。
『理慶尼の記』、『理慶尼真筆』(大善寺蔵)は、ひらがなで書かれていて、現在、古文書講座のテキストに使われている。
また、理慶尼の記は弘化2年(1845年)の版本で、理慶尼真筆は明治30年(1897年)の石版印刷版がある。