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-- 蔵書の紹介「蘭学事始」 --

PICT898502.jpg『蘭学事始』(らんがくことはじめ)は、文化12年(1815年)、83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記である。

蘭学の開拓者である杉田玄白は、草創期のことが誤り伝わることを懸念し、自らの記憶の範囲で当時のことを書き残そうとした。

文化11年(1814年)に書き終わり、高弟の大槻玄沢に校訂させた。

文化12年完成。この時、杉田玄白83歳、完成2年後の文化14年(1817年)85歳で死去した。

当初は『蘭東事始』という題名であった。幕末の頃、神田孝平が露店で写本を見つけ、明治2年(1869年)、福沢諭吉が、『蘭学事始』として刊行した。下記は内容の一部である。

和蘭語の解剖の本が手に入ったのであるから、私は何よりまづその図を実物と照らし合わせてみたいものだと思った。
略。
そもそも頃は明和8年の3月3日の夜のことである。時の町奉行曲淵甲斐守殿の家来の得能萬兵衛といふ人から手紙が届いて、明日手医師の何某といふ者が、千住の骨ヶ原で腑分をするといふことであるから、御望みならばそちらへお出でなさいといふ知らせである。
略。
さて、このやうなよい機会は、自分ひとりで占むべきでない。
友達のうちでも家業に熱心な同志の人々へは知らせてやって、これを一緒に見て、仕事の盆は互に分けたいものと考へ、先づ同僚の中川淳庵をはじめ、誰彼と知らせ、前野良澤にもこれを知らせた。
略。
この頃は丁度和蘭人が江戸滞在中で、この日私もその宿に行っていたので、帰って来たのが夜おそくであった。
にわかに知らせる方法もない、どうしようかと考へたところ、ふと思ひついて、私は良澤に手紙を書き、これを持って知人のところへ立ち寄り、相談の結果、本石町の木戸際にいた辻駕の者をやとひ、この手紙を良澤の宅へ置いたままで帰れといって持たせてやった。

略。
御希望ならば朝早くに、浅草の三谷町出口の茶屋まで、お越しください、
私もそこに行ってお待ち合はせいたしませう。
略。
明和8年(1771年)3月4日。翌朝早速支度を整えて、約束の茶屋へ行くと、良澤も来合わせているし、その他の友達も皆集まっていて、私を出迎へた。
その時である。良澤は一冊の和蘭書を懐中から出して、開いて見せていふには、これは『ターヘル・アナトミア』といふ和蘭語の解剖の本である。
自分が先年長崎へ行った時に買って帰って、持っているのであると。
これを見ると、私がこの間手に入れて今日持って来た和蘭の本と全く同じ本である。
略。
骨ヶ原の予定の腑分けを見る場所についた。
この日のお仕置の死体は、50歳ばかりの女で、大罪をかしたものださうである。
京都の生れで、あだ名を青茶婆と呼ばれていたといふ。

さて、腑分けの仕事は非人の虎松といふのが巧みだといふので、かねて約束して置いて、この日もこの男にさせる予定であったところ、急に病気で、その祖父といふ老人で、年は90歳といふものが代りに出た。
元気のいい老人であった。彼は若い時から腑分は度々手がけていて、数人はしたことがあると語った。
略。
この日もこの老人が色々あれこれと指し示し、心臓・肝臓・膽嚢・胃の他に、これの名は知りませんが、自分が若い時から手がけた数人のどの腹の内を見てもこんなものがあり、あすこにはあんなものがありますといって見せた。
略。
明和8年(1771年)3月5日。良澤の宅に集まり、『ターヘル・アナトミア』の翻訳が始まった。

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