HOME ▶ 共和村におけるりんご栽培の歴史


りんごブームはじまる。


昭和20年(1945)8月15日に第二次世界大戦が終戦となり、暗い戦争の谷間を栄養失調になりながら、かろうじて生きのびてきた都会の人々の買出しがりんご農家に集中した。1粒のりんごを口にすることによって、自分の生命の実在をかみしめていたのである。
りんご農家には「新円」の札束がうなり、成金が続出した。りんご農家に強盗が押入り、被害額15万円と聞く程の事件もあった。当時の公務員給与ベースは1ヶ月1,800円で、りんごの木1本が勤労者の1ヶ月分の給料に等しかったのである。
昭和22年(1947)の作物別の10a当りの所得は、米が785円、繭は 477円にすぎなかったのに対し、りんごは、2ケタちがう11.374円であった。2ケタちがいの高収益があったので、毎年県下では22~23万本のりんごの苗木が植えられ、500~1,000haの猛スピードで栽培面積がふえて、昭和26年には5,000haとなり、生産量も42,000tと戦前の2倍に達していた。            
このような中で税務署は前年の総収入を上回る税金をかけ、農家は生産を続けられないと、減税対策に総力を結集する時期でもあった。

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