HOME ▶ 共和村におけるりんご栽培の歴史


土壌管理の変遷

  りんご園の土壌管理も今(H10年)では草生栽培が主体で、動力草刈機が勢い良く唸りをあげて草刈りをしているのが一般的となっている。昭和20年代前半までは清耕栽培で、りんご園内は1本の草もでないように、年間何回も夏の暑い中、手作業で除草作業をしていた。

昔は、「精農は草を見ずして草を取り
中農は草を見て草を取り
惰農は草を見て草を取らず」

と教えられ清耕栽培を実施していた。

傾斜地の普通畑や桑園では、傾斜に合わせた等高線に沿って作付けして、それぞれ耕作をして、土壌流亡を最小限に止めていた。りんごは一度栽植してしまえば一度張った根の上の土壌が流亡して無くなり、根本が洗い出されると急激に衰弱をして、特に桑畑の後等は土の流亡を防ぐか根を深く張らせるかの対策が必要であった。根を深く張らせるための深耕が必要であった。昔の人は耕地一寸(3cm)で米一石が取れるといい、できるだけ深く耕すよう務めた。米、麦、1年生の作物の場合は毎年深く耕すように心掛ければよいが、りんご園の場合は全面的に一度に深く耕す事は不可能、で樹まわりを何年か計画で、深さ1m位の溝掘かタコツボ掘をして根を深く張らせる。これも多大の労力が必要である。

昭和26年には更級郡園連の柳沢技師の指導で ダイナマイト(爆薬)で深耕をおこなった。長さ1m、直径6cm位の鉄棒を深さ50~60cmに打込んで穴を空けダイナマイト50gを仕掛けて爆破させた。硬い岩石混じりの畑では、約1.5m位深さ50~60cm位の穴ができ、そこに有機物質を入れて土作りをした。軟らかい畑では効果なく、黄色火薬の方が有効であったが、一般農家に普及する前に、発破士の資格が無ければ取扱いが出来なくなり普及しなかった。りんごは一度植付けしたら如何にして表土を流亡させない管理をするかである。その対応策として、敷草、敷藁等が良策であるが、現在では材料のわら確保が大変である。昭和40年代には、エノキ栽培の栽培基の粕が有効と多量に施用し、地温低下でりんごの生育が悪くなり、これもあまり普及しなかった。


草生栽培

昔、草を見て草を取らないは惰農と言われたがりんごとの競合を調整しさらに有機質の補給をしようと県では昭和19~20年の物資欠乏期に緑肥施用時期試験が行われたが、短期間では明確な効果をつかむ事ができなかった。

共和の裾花凝灰岩の礫混傾斜地りんご園では表土が流亡して草も生えない、生えても良く育たない所もあり、草(牧草)の種類を何にするか等研究もした時代もあった。草の種類としてチモシー(イネ科の多年生牧草)オオチヤードグラス、多年生豆科植物、レッドクローバー、ホワイトクローバー他の牧草をあげた。

クローバー類は根留菌で窒素の利用ができて有効である等々、有機質の補給と土壌流亡と土壌の団粒構造を計るべく、草生栽培に入るのである、牧草以外の草を含めて昭和20年代後半頃から草生栽培が共和の傾斜地に定着した。清耕栽培による労力の不足と土壌流亡防止が急務となったからである。生産された草は、その畑で刈取り腐植物となり土壌の団粒構造を高め肥料効果も出て来る。平成の時代になると全面草生栽培が大部分になったが、草丈が50cmも1mにもなっても刈取りもしない園もあるが、これは惰農である。精農は年何回も草を刈り園内の清潔を保つようにして有機質補給をしている。せっかく園内に生えた草を化学薬品で枯らしてしまうのは、有機質利用からすれば大変もったいないことである。できるだけ使用したくないのが除草剤である。


朝霧とりんごの着色

 上杉謙信、武田信玄両軍の血戦地、川中島は霧の川中島で詩にも歌われ、初秋から秋冷季にかけての霧の濃い所で知られた地域である。共和の傾斜地のりんご園も昭和32年までは早朝から9~10時頃までは一面濃い霧に覆われ10時頃に下の方から次第に上の方へと霧が上昇しやがて晴れ上る地帯であり、霧により冷えたりんごに直射日光が当り自然着色に極めて恵まれていた。特に紅玉やスターキング、デリシャス等の、この時期に赤く着色する品種は他の産地に比較して7~10日は早く着色して有利販売ができた。

今でも(1999現在)下伊那郡、飯田市の東側、竜東地域、豊岡、高木の河岸段丘、りんごは北信より暖かく生育も早い地帯の上に天竜川の朝霧で自然着色が極めて良く朝霧のない地帯より7~10日早く完熟着色し有利販売されている。このように秋冷季の赤色着色には朝霧は大変な威力を発揮している。自然
の恵みである。

第2次大戦終結後、国の方策により、東京電力株式会社が犀川水系発電所の一環として小田切ダムの建設をし、昭和32年そのダム工事が完工し貯水を始めた以降、川霧が発生しなくなった。上中堰、小市堰等7堰土地改良区は期成同盟会を結成して、水利権に関する一切の件、地域に対する生活権に関わる危険防止等、細心の注意と検討を加えながら上中堰は昭和33年8月25日東京電力と契約書及覚書を調印した。これだけ十分な検討を加えながら霧については何等気づかず契約書の中へは入れてない。霧が無くなり紅色種の自然着色は約10日遅れる事になったが、気が付いた時には既に遅く、今更どうにもならない問題であるが共和のりんご栽培で自然着色が約10日遅くれこれが普通となった事は将来に渡り大変な損害であった。

「旭」「つがる」の8月~9月上旬出荷をねらい散水による人工着色は有利販売上必要悪だと特に北信地方で指導をしたが、これは邪道であり、消費地では未熟果で収穫してから日数が経過し着色はしているが棚持が悪く悪評となりこの時期の品種としては良い品種であったが寿命を短かくした。


りんご園の灌水

 前述して来たが、共和のりんご栽培園は裾花凝灰岩の礫混り、又重粘土の傾斜地で乏水地帯であり(昭和30年代前半より水田地帯にも植えられたが)旱魃には常に悩まされて来た。特に被害が多く記録に残る大旱魃は

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昭和37年の大旱魃で昭和38年に灌水組合4ヶ所、昭和39年には4ヶ所誕生。大旱魃の年には果実の水分が樹体に逆戻りして果実は皺が寄り、その後雨が降って水分の補給があって何んとか樹体は枯れなくて済んでも、果実はほとんど販売用にならない程の被害となる。上記の大旱魃以外にも傾斜地では時々被害を被った。旱魃が続くと、ただ雨ごいをし、天の恵を渇望して居た。一雨降って湿りになれば一雨千両と、りんご農家は天から金が降ったと喜んだ。後記する共同防除組合は、下方の堰の水をポンプアップして、水の無い所で十分な水を確保した実績を見て安定生産には灌水以外になく昭和37年の大旱魃を契機に旱魃は天災でなく、人災だとの意見の統一を見て、農林漁業資金(低利長期償還資金)を利用して、下方の堰用水をポンプアップして畑地灌水をする事に取組んだ。

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  県道下居返線の西側81.7ha組合員449名の傾斜地の旱魃被害が無くなった。生理的要水分の補給以上に灌水をして色着を悪くした事もあったが適量を見出してそれからは、雨が降らず晴天続きの方が良質の果実が生産され安定生産が出来るようになった。 

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