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整枝剪定の変遷

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  りんごの剪定技術は外国の模倣によったものでなく、また、生産を無視した、剪定技術にまどわされることもなく、つねに商品生産の向上のための技術として、青森県に於いて独特の発達をとげ、やがて長野県に導入された、技術である。

1.植栽距離について
1) 青森県では最初3間(約6m)乃至3間半(約7m)四方植の反当り(10a)30本内外であったが、明治34年以降には4間四方(8m)、反当り(10a)18~20本植が標準となって進んで来た。昭和15年頃より、さらに粗植が奨励され、現在では反当り12~15本を適当とするものが多い。長野県では2~2.5間植が多く1反歩(10a)当り75~60本植が明治から大正末期(1925年頃)ま
で続いていた。

2.青森県のりんご剪定の変遷(発展経過)
ア)明治中期の苗木輸入当時から暫くは、無剪定。
イ)その後-時期-文字刈。(不合理なやり方)
ウ)以後林木仕立、又は円錐型仕立の高い樹であった。当時2~3間(4~6m の)ハシゴを必要とした。
  明治の末期に袋掛けが行われるようになり、樹高が高いため低くする必要があった。
エ)主幹の上部を取払った型、今日の変則主幹形の幹の高い主枝数の多い形のものが行われ、
  この樹型は上段が強く、下段枝の衰弱を防ぐ事が難しいのと主枝が多いために、上部を除いた。
  一階作りを試みられた。
オ)外崎嘉七氏(大正2年頃)により一階作りを試みられた。
カ)黒石町の西谷順一郎氏による半円形なる樹形を作る努力が行われたのも、この頃である。

様々な研究努力の結果現在の大木整枝の形となるが基本としては、
1.良質  2.多収  3.低生産費 の3つの条件を満足させる事が必要であり、やがてワイ化栽培の方向へと進展する。

3.長野県の剪定の変遷
ア)藤原玉夫氏(県農試果樹試験地主任技師)が大正10年高等農事講習会、受講者郡農会技師達に限られた。県会議事堂で3日間開催。講師島善隣技師(青森りんご試。後の北海道大学農学部長)大正12年10月末りんご剪定講習会、大町築井玉三郎氏、常盤村清水鎮雄氏園で2日間、往生地栗田一二氏園で実地指導をうける。講師、外崎嘉七氏と対馬竹五郎氏等により青森県の技術を直接受講、指導を受け、反当り(10a)18本植、4間(8m)4方植を奨励する。同時に藤原氏は 昭和12年(1937)頃より半円形整技法を指導した。

イ)昭和26年、青森県りんご試験場より長野県農試園芸分場に後沢憲志技師が着任しりんごの全般的な技術指導をする。後沢技師の整技剪定指導は、昭和20年代前半まで変則主幹形の指導であったが

①主枝中心総合半円形仕立
剪定をだれでも、やりやすいように目標とする樹形をはっきり頭に入れる必要がある。いわゆる半円形仕立、あるいは主枝中心総合半円形が、長野県でも、もっとも適した樹形である。この樹形では主枝が2~3本で各主枝が車枝にならないようにすること、内行枝を強くしない事に注意をしながら各主枝を中心としてそれぞれ半円形的な結果部位を作る。

②改良開心形
主枝中心総合半円形は樹冠のラインを表現するものであるが、骨組の内容を表わす方が望ましいと考え、改良開心形と改める。この考え方は変則主幹形は主幹形を改良したもの、すなわち改良主幹形と呼ぶのが望ましく、遅延開心形は開心形に改良を加えたもの、改良開心形と呼ぶのがふさわしいと規定した。(果樹の整枝剪定、誠文堂新光社、長野県果樹発達史)

③わい化栽培
昭和40年(1965)代後半から県園芸試験場においてわい性台木を利た本格的な高密植並木植栽培の試験が宮川健一技師(後の果樹試験場)等により開始され、ワイ化栽培法に適した新しい整技剪定法が試行され始めた。


樹形はスピンドルブッシュ

高密植においては、スレンダースピンドルを志向する。試行技術はオランダの技術を下敷きにするものであるが、これが長野県の基本技術しと定着するには、さらにある程度の年月が必要であると思われる。(県果樹発達史昭和54年3月発行)
共和地区に於いては前記した果樹研究会が主体となり後沢氏を始め試験場の技術者の指導を受け入れ整技剪定も一歩早く定着させた。
(果樹整枝剪定、誠文堂新光社。長野県果樹発達史)