HOME ▶ 共和村におけるりんご栽培の歴史


りんご大凍害

   昭和27年(1952)11月28日~29日、零下5℃以下が15時間程継続、県下の未収穫晩生種約70%が全量凍害をうける。昔から、国光種の収穫は長野の恵寿溝(11月20日)までに完了するように言い伝えられていたが、昭和27年は11月の気温が高く、窒素肥料の遅効もあり、着色が遅れ、収穫作業が遅れていた。急に気温が低下し、27日朝から降り出した雪は28日まで降り続き40~50cmの積雪となり、通信(電話)交通(汽車、電車、バス)は総ベて不通、測候所との連絡も徒歩で長野まで雪の中を強行するありさま。 28日夜から29日朝まで約15時間零下5℃以下の温度が継続し、未収穫の国光種は残量全面的に凍害に遭った。29日朝の天気は快晴、直射日光が当る最悪の状況となり、樹上の果実は凍結果が解けて雪の上に雨滴の如く落ちて真っ白い雪を茶色に染めた。

共和村の被害は約3万貫(約112t)であった。この頃の測候所(現気象台)の予報では29日朝は午前中まで曇りで気温は0℃乃至-1℃位で果実の凍害はないとの予報であった。28日夕方まで雪の中での収穫もあまり進まず大被害となった。樹から雪の中へ振り落とした人は打傷はあったが凍害からは守った。この時代の気象観測は、南方、朝鮮半島、ソ連、極東の情報は入手出来ず、日本では九州から、北海道までの国内情報のみで、天気予報は当らない方が普通であった。今のように気象衛星、ヒマワリの情報があれば適格な低温予報が出て被害も最小限に留められたと思われる。

 この被害は園協により急遽集荷対策が取られ集荷場所を小学校の校庭とし、雪の上に一通り並べ、かき集めた雪を被せて、段々と積み上げて雪浸けとして一時凌ぎの貯蔵をした。

その雪浸けりんごをジャム用1万貫(約40t)りんご酒用1万トン(約40t)とし、果汁用は農協の醤油搾機で搾り、果汁をガロン缶(1斗缶)詰めとしたが、殺菌不良で膨張缶が出て全量販売にならなかった。この年の手取りは1〆匁(3.75kg)当、上物で100円を見込んでいたが、ジャム用、酒用、果汁用混で10円程の精算であり、約300万円の被害となった。この年の8月共和村中学校の校舎増築案が村会に提案されたが300万円の負担が困難であると否決された額とほぼ同額であった。昔の人の生活の知恵から、晩生種は長野の恵比寿講(11月20日)までに収穫を完了し二度と凍害に合わないようにする事を教えられた。