HOME ▶ 共和村におけるりんご栽培の歴史


りんごの病、害虫防除(共同防除)

  傾斜地で、山が浅く傾面で湧水も極僅か(下方の集落近くには湧水があるが)旱魃には常に悩まされて来た地帯で薬剤散布用水も殆どが下の集落から人の肩に依ってかつぎ上げる状態で、どんな根気のいい精農家にしても十分な薬剤散布は望み難く、昭和25年には黒点病の大被害に加えて葉まき虫、姫心喰虫類の猛攻を受け徹底した病害虫防除の必要を痛感した。防除施設、機具、機材としては昭和10年に岡田の大沢清之助7反歩(70a)が、りんご園に固定式配管動力噴霧機(杉本式1本ピストン式)を設置する。

杉本式1本ピストンは吸入と圧縮(送薬)でメーターの針が上ったり下ったり、噴口から霧の出し具合が息をする。大沢さんに引続き、大きい農家、小松原の福井真一郎氏8反歩80a夏目重治郎氏1町5反(150a)、岡田、太田五郎右衛門氏7反(70a)が、杉本式を設置し手押ポンプから動力化の方向に先鞭をつける。その後第2次大戦(大東亜戦争)に突入し動噴霧用発動機の燃料(石油)が配給制となり割当てで十分な石油が入手できず昭和26年(1951)前半まで配給制度が続いた。この頃までは共和村中の動力噴霧機の数も極く少なく徹底防除も出来ず前記の24~25年の病害虫の大発生となる。昭和26年後半より石油の統制が緩くなり、小型発動機にセットされた噴霧機3連ピストン式で圧力も平均で安定して撒布出来るものが出まわり水の確保が出来る所では、動力による薬剤撒布が急速に普及する。一方傾斜地の水不足の地帯では共同による水の確保と薬剤撒布の必要を迫られた。


麻久保病害虫防除組合誕生

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麻久保病害虫防除組合誕生(初代組合長野口敬一郎氏)麻久保では昭和25年産紅玉、国光)全量が下位等級品、被害果90%と言われた。

昭和24年25年の園協取扱いの等級比率を見ると、天(特秀)1.1%松(秀)31.6%竹(赤秀)37.6%梅(優)12.3%花(並)10.8%ジャム(果汁)6.6%下位等級67.3%と云う状態、この外に園協へ出荷が出来ず、山中へ埋めたり川へ流したものも多い為これを数に入れれば下位等級比は更に多くなる。

他に転作する作物もりんご以外には見当らず徹底した薬剤撒布により、りんご栽培を続けるより道なしの意見の一致を見たが、急傾斜地で傾斜25度位、平均で15度もあり平坦地の湧水池を水源として上部りタンク位置まで約300m落差60m、必要水量10a当り1回700リットル(約4石)15haで約10万リットルを1日で散布終了する水量の確保である。日本で最初の事業で視察調査をする先進地もなくそれぞれの立場で考え実行に移して行った。

然も、病害虫の大被害で収入減の後で施設資金を最小限度に押さえねばならない。その上制度資金や補助金が全く無い。全額を農業協同組合から借入により170万円を確保しなければならない。170万円は、10a当り約12,000円1戸当り約40,000円(この時の国光の手取約3.75kg当り100円)で当時としては大金であった。施設は水源地から、小松式揚水ポンプ3馬力電動機で2インチ鉄管で延長300m、落差60mの高所に押上げ、集団地の9合目に貯水並に調合タンク5段を築造した。調合タンクは 1)硫酸銅原液槽3石。2)貯水タンク40石。 3)薬液槽6石。4)調合槽8石。5)調合液吸入槽10石をクボタ発動機5馬力に有光噴霧機25型3連式。2台連結で送液、パイプは総延長650間(1,170m)で毎分3斗(54リットル)1時間18石(3,240リットル)をパイプの立上りから30間(54m)ホース15本を1時に噴霧、全園を1日で散布が完了する。今迄と違い圧力の強い霧で十分な撒布が出来る。特に婦人は水担ぎ、手押しポンプの押方の重労働から開放され、涙を流して喜んだ。

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 年間12回の撒布も薬害も出さず終了し薬剤費のみで労力は別として787,722円、反当り(10a)5,252円、一般の平均に比べ遙かに安価であった。薬剤の協同購入に依る格安と機械力による高圧噴霧の細霧化と一斉撒布の為の薬液の節約が薬剤費の低下を促した。其の結果は前述の病虫害果67.3%麻久保の90%被害から下記の園協取扱となった。                


共和園芸農協の取り扱い実績

0015.jpg  共同防除後は下級品59.5%となり特に花、ジャムは共同防除前12.4%から6.9%と少し共同防除の効果も顕著に表れた。病害虫の大被害の後、共同防除により薬剤撒布労力の低減と、顕著な効果を見た。水の確保に苦労した近隣地域も共同防除を計画し昭和27年春先に、小松原の前河原、(初代組合長野口高之助氏)16.8ha 80人。岡田の庚申塔(初代組合長宮下忠氏)1.5ha5名が小岸寺澤から60米雑
木林の中を送薬して発足した。

以後、更級郡下や長野県下、更には静岡県俺原村の柑橘地帯の急傾斜地にと個定配管式共同防除施設が普及して行った。麻久保には発足10周年記念事業として昭和36年5月、麻久保の中央台地に県内を始め全国の共同防除関係者からの拠金で「共同防除発祥之地」の記念碑が建立された。

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  昭和32年3月(1957)小布施町押羽にSSが導入され平坦地ではSSの時代に入って行く。

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  共和の傾斜地にも小型SSが普及、個人で導入して定置配管共同防除組合、麻久保は昭和63年発足から37年間、前河原は昭和62年発足から35年間でそれぞれ幕を閉じSSの時代に入った。