HOME ▶ 共和村におけるりんご栽培の歴史


共同出荷販売組織

 共和村での共同出荷は明治42年(1909)岡田果樹園芸組合が結成されている。昭和8年岡田の大沢清之助氏等10人が集まり共同出荷組織を作り、同8年 10余名は、更級郡出荷組合に加盟して活動して来たが昭和15年岡田出荷組合に改組(代表大清之助氏)翌16年にマル川、マル小、合併により小松原出荷合設立。(代表滝沢滝治氏。)注小松原出荷組合はマル川、出荷組合。代表坂田袈裟治氏。川中島、山本氏、青木島、長谷部氏他による組合。マル小、組合は、代表滝沢滝治氏の組合。
岡田、小松原双方出荷組合は、栽培販売等提携をとる中で、昭和21年双方が合併して共和村青果物出荷組合(初代組合長坂田勇雄氏。組合員378名)を設立した。

昭和16年から大東亜戦争による作付統制令等により作付面積はあまり増加しなかった。反面物資、食糧不足は深刻の度を増しりんごの需要の高いことから、出荷組合を作ったものの利用率は悪く、20年代は篠ノ井に青果市場3社、地域内に商人の集荷所が7ヶ所あり草刈り場の様相であった。しかし、農産物として経済性は抜群で、第1期りんご黄金時代でもあったが、インフレと混乱、不安から経済の安定と組織の強化が痛感された。終戦後は食糧増産一辺倒から適地適産、儲かる農業に移行し昭和22年11月農協法の施行に伴い昭和23年6月、共和村園芸農業協同組合(初代組合長、坂田勇雄)組合員384名栽培面積89haの専門農協が誕生した。

30年代に入り、「商人が買う価格で園協が精算できぬはずがない。がんばれ」と総会で激励され以後商人に負けない価格の精算が出来るようになり、40年代前半には地区内から全商人が消えていった。昭和46年からは管内の出荷量全量を園協が取り扱うようになった。近隣の地区外生産者の委託出荷も増え、全体の5%に相当する集荷量となった。

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  一方、組織的連携は更級郡園芸組合、県園芸連合会の上部団体の指導協力を得つつ共和りんごの名声を天下に示してきた。県段階の上部団体は終戦後の発足から園芸連、経済連の二団体があり、あらゆる角度から統合が叫ばれてきた。 昭和39年7月1日、長野県経済連と長野県園芸連が合併「経済事業連合会」として事業開始した。以後県下で専門農協は単位農協と合併したが共和園芸農協は専門農協のまま「経済事業連」の組織員として現在に致っている。平成 10年(1998)からは長野県経済事業連の諮問機関、果実専門委員会。委員長に共和園協組合長、久保田博久氏が就任し長野県下の果樹振興の組織運営に当っている。