HOME ▶ 共和村におけるりんご栽培の歴史


出荷資材の変遷

  明治41年9月長野市城山で農林水産物展示品表会が開催され商品としてりんごが動き初めたが、取り扱い方法もわからぬまま、果実商人に売っていた。インチキ商人にひっかかり、しょっちゅう泣かされていた。八幡村の和田郡平氏は雇い人を使って行商に力を入れ、大八車(木製の荷車)にりんごを積み、稲山、松代、長野、上田方面まで売り歩いた。この頃の入物は茶籠に約5貫匁(約20kg)を前後に天秤棒で担いでいた。大八車は良い方だった。大正4年更級郡は出荷組合を結成し販路拡大を計った。このころの県外出荷荷造は、りんご東京向けが4貫800匁(18kg)大阪向け5貫匁(18.75kg)木箱(石油箱)詰め(石油箱とは石油1斗缶(18リットル)を2つ並べて入れる箱のサイズ)1果ごと紙で包んで、のこぎりくずや、乾草、水ごけ等を充填物として詰め、大正8年に青森県の出荷木箱4貫800匁を長野県も取入れ、りんご箱として、規格が統一されるようになった。この規格で戦後も主としてモミガラ詰めで出荷された。果実類の出荷量の増加に伴い県内産の針葉樹材のみでは間に合わず、四国九州の松材箱を仕入れるがまだ間に合わず広葉樹材を使用する。広葉樹材は乾燥すると、ヒヅミが多く出て、荷崩れがする。加えて木箱は大量に纒めれば高値になる等々あって、規格が揃って纒めればコスト安の段ボール箱の方向に向いていった。

昭和35~36年には段ボール箱の中に枠を組みりんごを1ヶづつウレタン網を巻いて荷造りをしたが昭和37年りんご用パックの標準規格が県により決定されパックが玉別に統一された。段ボール箱に統一されるまでに農林省は木箱の18kg入に対し段ボールは全国規格を15kgに統一しようとした。長野県は15kgに切替えたが、青森は段ボールでも18kgで出荷した為長野物は青森物より2割安で売られて1年で中止し、青森が15kgになった。翌年から長野も再度切り替えることとして又18kgとなり、昭和41年頃より再び全国的にりんごでは15kgに統一出荷をされるようになった。現在では(H11年)時代の要請で5kgも10kgも出荷されている。

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