エノキ茸の人工栽培は京都の森下彦三郎が創始者で、長野県では大正12年長谷川五作(屋代中学教諭)がガラス瓶栽培を教材として希望者に教えた。松代町の山寺ほかが昭和6年ころこの技術を習得し生産を始めた。同17年戦時統制令により中止、24年以降松代町の中村進ほか8人が栽培を始めた。一方更級農学校の倉沢教諭は校内で栽培をしながら種菌を培養して普及した。
このころ県農政部が農家の冬期間の副業奨励として取り上げ、栽培戸数も全県で150戸くらいとなり生産量は23トンとなった。47年には2万4000トンと急激に伸び、共和地区でもりんご農家の副業として栽培を始めた。昭和42年ころより関西市場で鍋物料理用として好評に加え県経済連がエノキ茸専用輸送で翌日販売を可能にして活気をもたらした。共和地区では32年ころ始まり、37年ころには栽培農家も増えてきた。急速に増えたのは40年ころである。りんごの紅玉、国光の大暴落により、ふじ、つがるに一挙更新をした減収分をエノキ茸で補充するために44年ころより本格的に取り組んだ。そのころエノキ茸の抗腫瘍研究が池川哲郎ほかにより進み、イノチ茸と呼んで栽培者を活気づかせた。53年ころにはエノキ茸部会員も18人となり、平均500ミリリットル瓶1万本位であったが、平成11年では10人に減ったが平均4万本となり専業化してきた。県下でも2戸当たりは増加し通年栽培で専業化している。







