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著者 寺澤安左衛門直興と記述の背景

寺澤家の家系は、

 初代直郷(なおさと)  慶長二年九月三十日    (一五九七)没
 二代目直照(なおてる)寛永七年十月三十日    (一六三0) 没
 三代目直丘(なおちか)寛文八年八月二十五日   (一六六七)没
 四代目直加(なおます)宝永五年一月二十五日   (一七0八)没
 五代目直香(なおか) 延享三年一月二十八日   (一七四六)没
 六代目道孝(みちたか)明和七年二月二十九日   (一七二一~一七七0)五十歳没
 七代目直興(なおおき)天保二年八月十八日    (一七五一~一八三一)八十一歳没
 八代目直宥(なおひろ)文政五年三月十一日    (一七八五~一八二二)三十八歳没
 九代目直意(なおもと)弘化四年三月二十四    (一八0六~一八四七)四十二歳没
 十代目直温(なおあつ)明治三十四年十一月一日  (一八三七~一九0一)六十四歳没
 十一代目種二郎(たねじろう)昭和十五年二月九日 (一八六六~一九四0)七十四歳没
 十二代目富衛(とみえ)平成五年一月二十一日   (一九0四~一九九三)八十九歳没
 十三代目隆夫(たかお)
 十四代目俊夫(としお)


 寺澤家は平成十二年(二000)現在十三代目の隆夫氏が当主である。寺澤家の六~九代当主は六代目は三男六女、七代目は三男二女、八代目は五男四女、九代目は一男四女と多くの子供に恵まれている。しかし、近世では出生率が高いものの乳児死亡率もきわめて高い事から、農民家族構成員は必ずしも多くなかった。寺澤家も例外でなく、本文の著者である七代目安左衛門直興は父の六代目道孝の長男であったが、二人の姉を除いて兄弟姉妹はすべて早世している。六代目道孝は自分の存命中に姉の子供と娘婿に二つの養子分家を立てて、本家の支えとした。姉の子供は清三郎といい姉夫婦が清三郎を残して相次いで流行病で亡くなり道孝とは年もあまり違わず五代目直香夫婦によって育てられた。平成十二年寺澤 泰家の初代である。また、娘婿は善五郎といい寺澤和三家の初代である。清三郎と善五郎は現在それぞれの子孫が守る光林寺の墓に眠っているがその墓石は約一メートルの距離である。また、七代目直興も五人の子供を持ったが、八代目直宥は三男であり、次女は結婚したが産後すぐに子供ともども死去しており
、残り三人の子供も早世した。次女の供養塔が今も光林寺の山門の奥左に立っている。さらに、八代目直宥も九人の子供に恵まれたが、成人に達したのは九代目直意だけであった。しかも直宥は父直興七十一歳の文政五年(一八二二)年に三十八歳で病死し、孫の直意が弱冠十七歳で寺澤本家の家督を相続することになった。直宥の建立した六地蔵が今も光林寺の山門手前右に立っている。建立の日付を見ると直宥が没した後になっているので直興が立てたものと思われる。

直興の次女の供養塔と直宥の六地蔵は寺澤本家の屋敷内から見通せる光林寺の境内に建てられたが中尾山の流砂により、本組地区の土手が高くなり見通し出来なくなっている。このような状況の中で寺澤家には医学書が何冊か蔵書されていた。万病回春や日用食性などを文化一年(一八0四)に蔵書されていた記録があるほか、占いによる、医学本もあり、修身家伝の中に出てくる、大和本草などを上田の薬屋で見せてもらったとの文もあり、医学・神仏にたより、子孫を繋いでいたものと思われる。本はさらに修身家伝に出てくる内容の書籍も沢山あり六百冊以上の本が写本により蔵書されていた。これらの本は江戸時代の出版物の殆どを見ており相当数の蔵書していた物と思われる。参考までに蔵書目録を別紙にて付属した。

寺澤家の分家は三代目直丘の時代に高額な財産分与をともなう三分家を起こしているが現在この三分家はどこに在ったのか不明であるが寺澤の分家内に、向こう屋敷と言う場所があり井戸がふたつ残っている。ここは現在畑になっているが屋敷跡とされている。

また、寺澤家は明和五年から天保七年にかけて上田藩に「御内用金」「御無尽金」等の名目で十三回以上の献金を行っている。上田藩は領内の農民に対してその献上金に応じた身分格式を付与していた。


寺澤家の動向と献上金

  延享三年(一七四六) 五代目直香死去
宝暦十年(一七六0) 分家 高十石
明和五年(一七六八) 上田藩へ献上五十五両
明和七年(一七七0) 六代目道孝死去
明和八年(一七七一) 分家 高七石と金十両、犀口役添えて
安永三年(一七七四) 上田藩へ献金二十両 寺澤家宗門別判
安永五年(一七七六) 上田藩へ献金五十両 直興苗字帯刀
安永六年(一七七七) 直興庄屋格
安永七年(一七七八) 上田藩へ献金十八両
寛政一年(一七八九) 上田藩へ献金十二両
寛政九年(一七九七) 上田藩へ献金五十両 直宥苗字帯刀庄屋格
寛政十一年(一七九九) 上田藩へ献金百両
文化三年(一八0六) 上田藩へ献金五十両
文化十二年(一八一五) 上田藩へ献金八十両 直意苗字帯刀庄屋格
文政三年(一八二〇)上田藩へ献金七〇両
文政五年(一八二二)直宥死去
文政七年(一八二四) 上田藩へ献金七〇両(直意割番格)
天保一年(一八三〇) 上田藩への献金金額不明
天保二年(一八三一) 直興死去
 天保三年(一八三二) 直意(庄屋添役)
天保五年(一八三四) 直意(庄屋本役)
天保七年(一八三六) 上田藩への献金金額不明
天保十一年(一八四〇) 直意(割番代役)
弘化四年(一八四七) 直意死去  

直意は弘化の地震、つまり善光寺地震で亡くなったものと思われ同日岡田村では数人の死者があったと云われている。


安永元年(一七七二)寺澤家の家計収支

収入 利金           二十三両0分
籾売却代金 三百十六俵 五十九両0分
大豆売却代金 一両二分
菜種売却代金 二両二分
綿売却代金 三両三分
布・苅豆売却代金 一両0分
計 九十両三分
  支出 年貢・夫銭金  二十両三分
奉公人給金 六両三分
無尽掛金 八両二分
 肥料代金 三両0分
薬代金 一両二分
分家善五郎入用金   五両0分
小遣銭 十六両三分
計 六十二両一分
永代万重宝記より転写
金一両は五貫文
金一分未満は切り捨て

 寺澤家の直興、直宥、直意の親・子・孫の三代は、文化十二年の時点で苗字帯刀、庄屋格の格式を得ている。寺澤家は此の時期に川中島平で有数の名家として地位を獲得していた。七十歳の直興は後継ぎである直宥の急死という事態に直面し、寺澤本家としての役割や家業である農業、家格などを十七歳で孫の直意に託さざるを得なくなったのである。

 直興は寺澤本家の後継者を養成し、寺澤本家を維持する為の数々の手だてを講じている。その一つが農書の記述である。本書は標題の年記に文政五年(一八二二)一月とあり直宥が病床にある頃から書き始め翌年までかかって家業である農業の実状を記録した。

 直興は明和年間(一七六四~七一年)から年々にわたって「大福帳」「小遣帳」「小作入帳」など帳簿を生成して、家計の収支決算を行ない、さらに年中行事、生活信条、農業経営、蔵書目録などについて克明に記述し、寺澤家の生産と生活にかかることがらの防備録としていた。平成十二年現在、直興の残した帳面類は長野市立博物館に六百点以上も寄託され数千ページに及び残されている。また、県立史学館にはやはり数千点に及ぶ書類が未整備のまま残されている。

直興は死去する三ヶ月ほど前の天保二年(一八三一)年五月に、今里村庄屋林部官左衛門と稲荷山村庄屋田中友之丞の両名に「遺言一札之事」を作成し両名に対する孫直意の後見人の依頼と分家の中から寺澤本家の差配人の指名をしている。また、直興は直意の仲人として親分子分の儀礼的な親子関係を結んだ田中友之丞に対して、直意が三十歳代となり、寺澤本家を継承するにふさわしい人物と成ったならば返却するという約束で四百五十両(現在のお金で六千万円位)もの大金を供託している。現在でも北信濃や川中島地域では親分子分の間柄は本家分家の間柄より優先順位が高い社会関係がある。寺澤本家の後継ぎは他村の庄屋の連携によって支えられていたのである。

供託したお金は全額返却されたかどうか不明であるが、四百五十両の内五十両は直興の葬式費用に返されている。さらに、十代目直温は十歳の時に父直意を亡くしており父の祖父直興の残した書類が参考になったと思われ、家業の農業、特に田圃の集積をしている。また、直温の子、十一代目の種二郎は明治三十七年(一九0四)に共和村村長を務め後に小松原大火の復興委員長になっている。その後、帝国農会議員をはじめ青年団長、出荷組合、信濃農村自由大学、等を創設に活躍し、川中島平の乾田馬耕、果樹、養蚕などの農業技術の改善と普及に大きな足跡を残している。寺澤家の門前に建立されている種二郎の顕彰碑は昭和十一年のものであるが直興の営農精神を継承した子孫の実績である。寺澤家はその後第二次世界大戦後、農地解放により二十五町歩の田畑を喪い現在に至っている。

なお、顕彰碑は当初長野市篠ノ井布施高田西組交差点(青野整形外科南)に置かれていたが道路拡張に伴い篠ノ井高校よりのガード下に移された。その後、ガード下では先祖に申し訳が立たないと言うことで現在地に移築された。当初の場所は寺澤家の所有地の一番東南の田圃に立てられていた。

寺澤家の医学

 江戸時代は子供が沢山さん生まれている割には育つものが少なく、寺澤家に於いても一割か二割の子供が成長しただけで多くは早世している。また、実家に帰って出産をした、娘が母子ともなくなったり、乳飲み子を残して両親が流行病で亡くなったり、それは辛うじて命を繋いできた形跡が過去帳や墓石に伺うことが出来る。また、寺澤和三家の庭には(寺澤家の最も西の屋敷内)にはチフスの神様の祠が現存し、氏神のお祭りの際こちらにも玉虫を上げている。

 寺澤家の蔵書の中や家訓などのなかに出てくる医学書などはつぎの通りである。

 一、本草網目 原書 李時珍 天正六年(一五七八)貝原益軒著
 二、大和本草 一、の日本版 寛文十二年(一六七二)
 三、大和本草 一、の改定版 宝永五年(一七〇八)
 四、重訂古今方集 薬の作り方・飲み方
         延亨二年(一七四五)健斎甲賀通元識 著
  安永九年発行
 五、醒医六書瘟疫論上下   亨和三年(一八〇三)医学書
 六、類聚方 薬の本 宝暦十三年(一七六三)武欽孫 著
               明和元年(一七六四) 発行
 七、方苑 処方箋集 文化八年(一八一一) 平岡水走 編纂 処方箋
 八、日用食性
 九、傷寒論
 十、古易察病傳 天保十四年(一八四三)新井白蛾 著  易の本