蕎麦そばは、930年ごろに成立した和名類聚抄に登場する。日本最古の百科事典。
平安時代には、その存在は知られていて、当時から、ソバ、ソバムギと呼ばれている。
原本を読みたい方はこちら>和本 和名類聚抄05 (長野電波技術研究所) 源順 渋川清右衛門 https://www.amazon.co.jp/dp/B07KP45ZQN/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_zd19Cb66C838P
さらに古い資料もあるようだが、広く栽培されていたかどうかは、わからない。当時の食べ方は、そばの実を、生食したり、ご飯のように炊飯して食べていたようだ。また、そばがきのように、そば粉にお湯を混ぜ、練り物や団子のような形にして食べていた、
黄帝内経や神農本草経などのそれ以前の中国の文献を確認したが、蕎麦、それに近いものは確認できなかった。確かに、五穀にも、蕎麦が含まれていない。
平安時代から800年ほど経ち、西暦1500年代、そば切りの製法が考案される。最古の資料は1576年のお寺の文章とのこと。
そして、1689年に作られた江戸時代の料理にはそば切りと紹介され、その作り方が掲載されている。蕎麦ゆでの秘伝法も書かれているが、現在の作り方と比較し、どのような変化があるのか、興味深いところである。
このころに、蕎麦は普及した。
江戸、東京に蕎麦粉を供給していた一つが、私どものある長野市篠ノ井。千曲川や犀川に囲まれたこの地域は、農業用水の河川が整備されている。そのため、一つの河川に200近い水車があった。あまりに水車が多く、田んぼへの水もままならなくなり、数を減らすよう、松代藩からの命令が残っている。
川中島を含む、この地域は二毛作が可能で裏作には麦が作られた。この二毛作が、川中島合戦の要因の一つともいえる。ちなみに、新潟は今でこそ、日本一の米どころではあるが、河川整備による明治以降の話であって、それ以前は多くの沼地があり、田んぼも潤沢とはいえなかった。
二毛作の麦は、松代藩も租税を取らなかったため、長野市近辺の主食は麦となっていった。さらに、近隣の河川を利用した水車で小麦粉を作った。その名残が小麦粉の業者としていくつかみられる。山間部で、米麦の栽培が困難な地域では、麦・稗・粟が栽培され、この篠ノ井で粉に換えられ、江戸に送られていた。それが戸隠そばとして知られていたり、諸説あるが、この地が更級さらしなと呼ばれていて、近隣の仁科を出身とする行商人が江戸で作った蕎麦に、領主に申し出て保科の科の字をあて、更科そばにしたといわれています。
やがて、二八蕎麦など、屋台など簡単に食べられるファーストフードのような存在になっていくのです。